有限会社 田中商店

BLOG

2019.03.13

もつ君の歴史上人物シリーズ 第2回

こんにちは、美容ディーラー田中商店のもつ君です。

私の好きな人物第二弾として「徳川綱吉」にスポットを当ててみました。

徳川綱吉(1646~1709)について

江戸幕府5代将軍徳川綱吉と言えば「お犬様」さらに「生類憐みの令」を思い浮かべる人も多いと思います。特に「生類憐みの令」は過酷な悪法とされ、綱吉の悪評につながっています。

最初は「殺生はダメ」という訓令的なお触れだったが徐々にエスカレートしていき、犬・猫・鳥はもちろん魚や貝・虫にまで及んだそうです。

実は当時武士の力が強く刀を新しくおろした時に人を試し切りしていたそうです。武士が人を殺生しても罪にはならなかったとの事。「人間も生き物」という思いで「生類憐みの令」を発令したのではないかと言う人もいます。

「生類憐れみの令」は犬だけではなく、無益な殺生を禁じる優しい法律だったと思います。でもその範囲があまりにも広すぎて悪法になってしまいました。実は優しい人だった様な気がします。そんな綱吉が徳川幕府の中でも好きな将軍です。

2019.02.05

もつ君の歴史上人物シリーズ 第1回

こんにちは、美容ディーラー田中商店のもつ君です。

今回は「歴史上の人物」にスポットを当ててみました。

私の大好きな人物「明智光秀について」

明智光秀と言えば1582年6月本能寺の変で織田信長を倒し、その後豊臣秀吉の軍に山崎の合戦で敗れ、落ち延びる途中京都山科の竹やぶを通りかかった時、土民の竹槍に刺され死んだと言われています。光秀は信長の度重なる嫌がらせを受け、又光秀の領土(丹波と近江)を取り上げられ、出雲・石見(今の島根県)に領土を変更させられる事になった。光秀にとっては毛利軍と戦い、そして左遷させられたのと等しく従う訳にはいかない。出雲の毛利軍と戦いに出た秀吉に加担せよと言われ出発したが、突如として軍勢を引き返し「敵は本能寺だ」と叫び信長打倒へ向かった。しかし、秀吉は光秀の謀反を知り毛利方と和睦し京都へ取って返し、光秀を倒した訳です(山崎の戦い)。

ここで1つ疑問に思うことが。光秀が落ちのびる途中、土民の竹槍に刺されたわけですが、武術に長けていた光秀が簡単にやられてしまうものなのか? 実は、光秀にそっくりな影武者がいて、代わりにやられたのではないか、という説があります。そして生き延びた光秀は延暦寺に関係する天海大僧正に変身したと言われています。天海は徳川家康に重用され、秀忠、家光と徳川家三代にわたって仕え「黒衣の宰相」と言われていた。家康は、光秀の豊臣家に対する復讐心を巧みに利用し、又、天海が策謀家であったため戦に利用した、と言われています。又、延暦寺の僧達は、信長により火を放たれて僧達を虐殺された事により、信長を倒した光秀を天海として匿っていたとも言われています。関が原の戦いの時天海は家康に策を講じ、その後の大阪冬の陣夏の陣の時の大阪城の堀を埋める作戦も天海の案だそうです。天海は日光山を開き、東京上野の寛永寺も開山し、家康の死後の事も考えていたようです。松禅院という延暦寺の末寺に石燈篭がありますが、そこに「慶長20年2月奉寄進 願主 光秀」と刻んであったそうです。光秀はそれより33年前に死んだことになっていて、光秀が寄進できるはずがないわけです。その後に大阪夏の陣が勃発し、豊臣家が滅亡したわけです。

以上のことから光秀は、天海として生き延びたのではないか、と言われています。(仮説)

最近研究が進み、史実と違う人物がいます。歴史を紐解いていくと色々な事が分かり面白いですね。